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ワーキングホリデーの歩き方④

学校も慣れてきて、週末の度に、友達と遊びに行く日々が続いた。世界有数のスキー場「ウイスラー」に行ってみたり、ビクトリア島に行ってみたりと、楽しい日々が続いた。しかし、相変わらず、ホームスティ先では、そんなに会話も無く、嫌ではないが、楽しくは無かった。私は、自転車を買って、学校から帰ってきてからも家に居るのが、暇であったので、その自転車を使って、近隣の湖などを探索した。

2週間ぐらいたったころか、小さなホームシックにかかった?かのような症状が出た。

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日本の実家が恋しくなったのだ。すごく寂しい気持ちになった。学校へ行っているが、なにか物足りなさを感じている。

そんなある日、学校の韓国の女の子に告白された。

正直、その子は、他の日本人のことが好きなのかと思っていたが、自分であったことは本当にびっくりした。しかも、告白されて、キスもされた。されたという表現を使うのは、あんまり好まない女の子であったからである。

これは予断であるが、私のワーキングホリデーが1年を過ぎて帰国してからも、韓国から私の日本の実家に英語でなんども電話してきていた。悪い気はしなかったが、実の母は英語がしゃべれるわけもなく、困っていたことを憶えている。

そんなこんながあったバンクーバー生活であったが、一ヶ月を過ぎたころから、ロッキー山脈の麓に、履歴書を送り、仕事を探していた。そしたら簡単なもので、ホテルの厨房に働き口が決まった。

私は、その職場が住み込みできることがわかったので、行く事に決めた。しかし、すぐに来てほしいということであった。

学校は一ヵ月半のお金を支払っている。ホームスティ先にもお金を支払い済みである。だがそんなことは関係なかった。バンクーバーには私が求める生活が無いことに気づいていたので、学校とホームスティ先に、お金はそのままでいいので、もう出て行きます。辞めますと伝える。

学校は最後の日に卒業証書をくれた。めっちゃ嬉しかった。

私は、バンクーバーでレンタカーを借りて、友達二人を誘ってロッキー山脈の麓、「ジャスパー」というところを観光して、「バンフ」という村に降り立った。

あまりにも美しい景色、山々、湖、私の求める環境がそこには無限に広がっていた。

私は、日本から来るとき、カメラは撮りっきりコニカという、撮りきりのカメラしか持ってきていなかったが、その風景を目の当たりにして、一週間以内に、カルガリーに行って、一眼レフカメラを買った。

こんなに美しい山々を皆に伝えなければという思いから、10万弱の大金を出して、買っていた。

これが私の写真家の始まりであった。

今思えば、写真家という趣味が見出せたことが、この「ワーキングホリデー」とう制度で、海外に飛んだ意義があったこと
になる。

自然を慈しみ愛してやまない「ほりっぽ」の本格始動であった。

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つづく

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